努力しろとか成長しろとか〜呼吸を止めなきゃそれで良い〜

 

 

「君は成長したいと思わないの?」

 

昔、しゅじんが、転職する前の会社で上の人からこう言われたそうです。

 

どういう話の流れで発せられた言葉なのかによって多少意味が変わってきそうですが

 

その話を聞いたとき、私は「?」と思ったんです。

 

思わず「その人のいう 成長 って何を指してるの?」

 

と聞いてしまいました。

 

例えば、「仕事で◯◯ができるようになりたい」

 

といった目標を持って仕事しようという意味での成長なのか

 

「やる気を持って仕事すること」みたいな意味なのか。

 

いくつか考えられますけど、一体その人はしゅじんに何を聞きたかったんでしょうか。

 

ダラダラやる気のない態度をとっていたなら叱責されたんでしょうけど

 

どうもそういうわけではなさそうです。

 

(というかそんなしゅじん、むしろ私が見てみたいくらい笑)

 

 

 

成長とか努力って、わざわざしようと思ってすることじゃないと私は思うんです。

 

それとなくでも、目標があって達成しようと試行錯誤していたら、

 

そういえば努力していたし、前と比べたらこういうことができるようになったなあ

 

としみじみ成長を感じるようなものじゃないでしょうか。

 

 

 

毎日、真夜中をすぎて血みどろになって帰宅する人が、

 

成長していないなんてことはないでしょう。

 

なんとも抽象的で、発言の意図がわからないと思ってしまいました。

 

もしかしたら、それをしゅじんに質問した方自身が悩んでおられたのかもしれません。

 

 

 

成長度合いやペースは周りが決めることではありません。

 

いい例として、学生時代の私の活躍は、そこそこに見られるものだったと思います。

 

成績も良いし、部活でも中心的な役割を担っていたし、

 

学級委員だのなんとか委員長だのやったし、

 

インターンシップにも参加し、ボランティア活動をして、賞をいただき、

 

それはそれは輝かしいと見てくれる人もいたでしょう。自分で言いますけど笑

 

では逆に、うつ病になってしゅじんと同棲して、

 

無職のただの居候になってからの何年間、

 

果たして全然成長していないってことがあるでしょうか。

 

私はそうは思わないんですよね。

 

むしろ、無理をして優等生演じていたときの数年よりも

 

何もしなかったこの数年の方が成長しているかもしれません。

 

少なくとも、もっと自分に素直に感じたままに生きることにおいては

 

かなり成長したはずです。笑

 

 

 

もちろん、こんな見えない成長を誰かに認めて欲しいとは全く思いません。

 

自分がわかっていれば十分なので。

 

それと同時に、まわりは目に見えてその人に大きな変化がないと、

 

成長したって認識しにくいものなんだろうな、と思います。

 

 

 

自分にもまわりにも、見えない成長ってあると思います。

 

あとになって振り返ってみたときに見えるものだから

 

そのときはわからないはずです。

 

だけど、毎日寝て過ごしたうつ病ニートだって、

 

今になれば成長した気がしてるんですから、

 

一日ゴロゴロしながら鼻ほじってゲームしてた人だって

 

何かしら成長してるんですよ、きっと。

 

ただペースはゆっくりかもしれないですけどね。

 

究極のところ、呼吸さえ止めなければ、誰でも成長してるんだと

 

私は思っています。

 

逆カルチャーショック?〜米国で1年過ごし日本に帰国して驚いたこと〜

逆カルチャーショックというのかはわかりませんが、アメリカに1年留学して日本に帰ってきたとき、個人的に衝撃的だったことをまとめました。
 
・東京の夏はビニールハウスの中
飛行機から降りて数分間、「なんでここビニールハウスの中みたいにモヤモヤするんだろう?」と建物の構造や施設について真剣に考えてしまいました(笑)しばらくしてピンときた。こんなに蒸し暑かったっけ!
 
・トイレが清潔!
外のトイレがどこも清潔で超快適でした。アメリカでは「え、全部の個室、水流れてないんですけど・・」とか「どうやって用足したらこうなるんだ?」と思うような悲惨な光景に慣れつつあったので、光り輝く日本のトイレに感動しました。
 
・コンビニが美しい!
明るくて清潔で整頓されているコンビニ。帰国後初めて入ったファミリーマートで、うわっ!と眩しさに圧倒されました。全然薄暗くない、清掃されている、美しく陳列された商品。高級ブティックと見紛うほどのきれいさに、思わずニヤついてしまいました。
 
・電車から大量に人が出てきた!
アメリカでは地下鉄の発達しているニューヨークでさえこんなに人が出てくるところを見なかったので、改めて人の多さに驚きました。
 
・女子っぽい男子が多い!
これは流行りもあったのでしょうか。髪が長くて女性っぽいのがオシャレな、女性っぽい服装やピアスをつけた男性がとても多いことに気づきました。日本の外に出なければきっと気づかなかったと思います! ちなみにこの話は、大学の教授たちの間でもウケていました。やっぱりみなさん日本に帰国されると同じように感じるそうです。もちろん、日本とアメリカどっちが良い悪いの話ではないですよ! 善悪ではなく、単純に違いです! 米国以外の国では男女のファッションはどうなっているんでしょうか。興味があります。
 
・道路狭い〜でも超きれい!
片側2車線、3車線あることに慣れてから帰ると、片側1車線は狭く感じますね。しかも、その1つの車線自体も幅が狭いので、ちょっとビビります。歩道も狭いし、ないところも多いですもんね。一方で、これは本当に世界に誇れると個人的に思ったんですが、デコボコの道路がほとんどなくて、細い道でもしっかり舗装されていて平らできれい。国土の小さい国だから道路の幅は仕方ないけど、この道路の質の高さはすばらしいと思っています。
 
・痩せている人が多い!
日本のポッチャリはアメリカのスキニーなんて例える人がいるくらい、なかなかふくよかな人を見かけることはありません。私も日本では痩せてるなんて言われたことなかったのに(高校時代はクラス1のおデブだった)、アメリカではどうやってそのスキニー体型を維持できるのかと真剣に聞かれました。「生まれつき」なんて答えたら嫌味っぽい?(もう言われる機会もないな。遠い目)
 
このほかにも、電車でどこにでもいける便利さ、店員さんが超親切、朝から夜までお店があいてる、食べ物がおいしい、水がきれい、などなど、やっぱり日本いいなと思うことがたくさんありました。もちろん逆もありますが。外に出てみると視野が広がって、自分の国のことを客観的に見られるようになると言いますが、実際本当にその通りでした。機会があれば、次は別の地域にも行って、もっと長く滞在してみたいなあ。

 

 

 

プレミアムフライデーいらないから定時で帰して!〜子どもは無理かなと思った話〜

転職しても変わらない残業

最近主人が転職しました。今の会社に入社する前、会社からは「うちは残業するならその分勉強時間にあててほしいと思っているので、あえて残業代を低く設定しています。」と説明があり、てっきり残業時間は少なめなのかと甘く考えていました。

 

ところが入社早々から残業、残業、残業。朝早く出勤して、仕事が終わるのは日付が変わってから、終電で帰宅する毎日。月ー金のはずなのに、土曜出勤が当たり前。

 

前職も同じ職種で、残業、残業の毎日。やっぱり日付が変わらないと帰ってきませんでした。今度の会社では、少しは早く帰れるかもと期待していたのに、就労時間は変わらず。主人自身は、業務内容は前よりもマシになったと言いますが、拘束時間は改善されませんでした。

 

どちらの会社も残業代を払ってくれる点ではブラックではないかもしれないけど、数時間だけ寝てまた仕事に行く人間をそばで見ていると、ダークグレーに思えてならないのです。

 

仮に今後転職をし続けたとしても、出るかわからないサイコロの目を振り続けるようなもので、ホワイト企業にたどり着けるかはわかりません。

 

家族が成り立たない

主人がそんな働き方をしているなか、お気楽な専業ニートの私は、わずかばかりの家事をこなし、主人から頼まれた雑用を終わらせ、「もしも子どもがいたら」の妄想をしながら過ごします。

※私が自分のことを専業ニートと書くのは事情あってのことです。世の中の専業主婦、専業主夫の方に悪意があるわけではありませんので誤解なきようにお願いします。

 

しかし、夕食の準備が終わり、夜8時、9時、10時と時間が過ぎるにしたがって、主人の体調を心配する気持ちが募り、不安になり、「やっぱこれじゃ子どもは無理かあ」と落ち込みます。(ワンオペ育児をされている方の気持ちを想像すると胸が痛みます。)

 

実際、今の私の任務は「日付が変わって帰ってきた人を1分でも早く就寝させること」になってしまっていて、主人の話を聞く時間もろくにないし、私が話す時間もない。流れ作業的に、「メシ!風呂!寝る!」になるのが現実です。主人に不満はありません。ただただ不憫に思えてならないのです。

 

夫婦二人でさえコミュニケーションがとれず、ただの同居人化してしまっているのに、子どもがいたらどうでしょうか。一緒にご飯を食べることもお風呂にも入ることもない、「たまに顔を見るオジサン」がいるだけ。

 

もし主人が根っからの仕事人間なら、家族としてその生き方を尊重し、応援します。でも、うちの主人は家庭第一主義の人間です。私のことを「飯炊き風呂焚きババア」にしたいと望んでもいないし、「たまに顔を見るだけのオッサン」になりたいとも決して思っていないのです。

 

私が寂しいと思うのは私の勝手ですが、きっと子どももさみしい思いをするでしょうね。何よりこれは主人が期待していた働き方、生き方でもないはずです。

 

一主婦の理想論と現実と

私の理想論では、定時とまでは言わないにせよ、せめて夕飯時間には帰ってきてほしいです。頭では理解していますよ。夜7時8時には帰れないサラリーマンが大半だということは。

 

いつだったか、女の芸人さんがテレビで「旦那を早く帰してほしい」と訴えたという記事を読みました。

 

その批判内容として、「テレビを通じて訴えたら、夫の立場を悪くする」といったものが挙がったようで、これは否定できないなと思いました。テレビを通じて有名な方が発言することを考えると、もう少し配慮が必要だったかもしれません。

 

しかし、あくまで一人の主婦として考えると、というよりは一人の人間としては、「早く帰して」という主張は、本当にこれ以上でも以下でもない気がします。

 

子どもがいるかいないか、単身かそうでないかにかかわらず、もうちょっとマシな働き方ができる社会になってはくれないかと夢見てしまいます。病気の家族がいたり、介護をしていたり、いろんな事情の人がいて、最悪会社を辞めないと介護できない、子育てに参加できない。誰も幸せになれないのではと思ってしまいます。

 

主人の転職活動中、女性が多い会社も候補の1つにありました。そのとき「女性が多い職場だと、男の主人に仕事を押し付けられないか心配」なんて思ってしまったのも事実です。だけど、そんな考えが出てくる時点で、社会のあり方を疑わなければいけないのでしょうね。

 

子どもができたら転勤させられる人、会社内で妊娠の順番待ちをする人、正社員なら長時間残業が当たり前という環境にいる人、子どもがほしいけど職場に遠慮して悩んでいる人、しわ寄せに悩んでいる人、などなど。こんな人たちが子どもがほしくてかつ子育てに関わりたいと思ったら、極端な話、仕事を辞めるかパートしかなくなってしまうのでは。

 

人手不足の日本では厳しいのでしょうか。諸外国を参考に改善できる部分はないのでしょうか。

 

プレミアムフライデーいらないから定時で帰して

月末の金曜日だけ早く退社できても、働き方改革としては何の解決にもならないと思ってしまうのは私だけでしょうか。だって、その分他の日にまた残業で仕事調整しないといけないんでしょう? 「毎日定時で帰して」というのは理想論が過ぎて無理かもしれないけど、せめて長時間残業が改善されれば、夫婦正社員共働きでも子どもをもうけたいと思う世帯は増えるだろうし、その方が結果的には経済も潤って税収も増えるのでは?(短絡的すぎ?)

 

たとえば、私の友人(正社員総合職)の会社では、最近定時退社を強く推奨するようになったそうです。友人いわく「早く退社できるようになったら体力余っちゃって、会社帰りに習い事始めたんだ」と。詳細はわかりませんが、定時にあがれる分どこかにしわ寄せがくる形ではないようで、理想的な働き方だと思いました。

 

とにもかくにも、社会全体がもう少しこんなふうに健康的な方向に変わってくれたらいいなと思います。一人の人間が二人分働いて成り立っている社会は、少なくとも健康な先進国の姿ではないのでは。

 

会社の都合を度外視して本音だけ言えば、理想は、「なんでもいいから主人を早く帰してほしい、子どももほしい、夫婦で協力して子育てしたい」です。子どものことはともかく、主人の健康が私にとって結局一番大事だから、やっぱり早く帰して!

子どもに家の手伝い、家事はさせた方が良いの?〜基本的にやらせないけどメリットも〜

子どもが自主的に「やってみたい」と言った、興味を持って行動した、という場合を除いて、親の方から家事を手伝うことを促すのは、私はナシだと思っています。こういうことをいうと、「子どもを甘やかしている」とか「子どもが家のことをできない人間に育つのでは」と批判する方もいるかもしれません。しかし、親が家事を積極的にやらせないと、家事ができない大人になるでしょうか。逆に、親にやらされていると家事が嫌いになる可能性が高まるような気がします。親子と家事の向き合い方やコミュニケーション、子どもが家事をするメリットについて書いてみました。
 
子どもの興味や自主性を尊重したい
子どもの自主性に任せてのびのびと成長させた場合、その子は大人になってから、自分でやるべきこととやりたいことを考えて計画的に行動できるようになると思います。そうなれば、一人暮らしをして家事をしないといけなくなったとき、自分で試行錯誤しながらやり方を確立していくはずです。家事をやらせない親のことを「子どもを甘やかしているダメ親だ」という親は、「自分が子どもに家事をやらせて甘えている」という側面にも気づくべきでしょう。
 
 
責任感のある大人になればいずれ自らしようとする
私の周りは、「実家を出るまで家事なんて大してやったことなかった」という健康家庭育ちの人がけっこういます。じゃあ、みんな家事ができないかってそんなわけありませんよね。うちの主人もそうです。主人のお母様は「家事は私の仕事」といって、ほとんどやらせたことがなかったそうです。でも、主人自身、「必要なことは自分でやる」と自立できていますから、生まれて30年洗濯機を触ったことがなくても、必要に迫られればできます。私が専業主婦なのにもかかわらずです(私はもうひたすら感謝)。それは主人のなかで「家は夫婦二人で維持する」という考えがあってのことです。誰にそう言われたわけでもありませんが、自主的にそのように捉えてくれています。
 
 
親はなるべく楽しそうに
また、家事をすすんでやる人間に育てたかったら、親が楽しそうにやる姿を見せておくことしかできないと思います。良くない例として、私の場合は、父が私に家事を強制し、母は嫌々家事をやっていました。特に料理は嫌いだと毎日毎回文句を言っており、そのせいで家のことをするのがとにかく苦痛です。台所に立つたびに無意識にイライラしてきて疲れたり、ただ布団をたたむだけなのに精神的にとても疲労します。こうなるとただの面倒くさいでは済まなくなるので、非常に厄介です。これはだいぶマズイ場合ですが、こういった事態を避けるためにも、やらせないようにして良いと思います。
 
 
子どもがやりたがったらお手本を見せる
ただし、子どもが自分から興味を持った場合は別です。なんでも親のやっていることを真似したがるときがあると思います。そのときは、一緒に家事を楽しんで、「ありがとう」「がんばったね」と声をかけてあげるといいでしょう。また、簡単な家事をとおして「手先が器用になる」というメリットもありますので、子どもがやりたがった場合は、言葉でやり方を教えるよりも「よくお手本を見せる」ことを意識して、子どもの学びを助けられたら良いなと思っています。もちろん子どもが飽きたら、それはそれでやりたいようにさせておいたら良いのです。
 
 
親と一緒にやるのが楽しい場合も
私の知り合いに、まだ高校生なのに、とても料理を手際よく楽しそうにこなす子がいます。話を聞いてみると、彼女は好きでお母さんの隣で一緒に台所に立つそうです。彼女のお母様のことも知っていますが、子どもの自主性を尊重しているのが何気ない言葉や行動からよく見て取れます。何よりお母様自身がとてもエネルギッシュな方で、仕事に家事に趣味に、何にでもとても一生懸命、全力投球といった感じなので、親がそんなふうに楽しそうにしているから、子どもも好きなことを楽しく取り組むのだなと思いました。そして、料理が親子のコミュニケーションの時間になっていて、お互いが尊敬し合っている理想の距離感をみて、とても羨ましく思えました。
 
 
いろいろ考え方があると思いますが、今のところうちの家庭では基本的にこんな感じにしたいねと話がまとまっています。

「子育てに不正解はない」は本当か〜間違いはだいたい決まっている〜

 
このような記事を読みました。
 
 
さて、こちらの記事では「子育てにまちがいなんてない!」と断言しており、さらに親が子どもを思って選択したことに間違いはないのではと述べていますが、果たして本当でしょうか?
 
 
結論からいうと、私はこの記事の一部には、あまり積極的には賛成できません。私は「子育てに不正解はあっても正解はない」と思っています。なぜなら、どの育児本を読んでもわかる通り、共通して出てくる間違いというのはほぼ決まっているからです。試しに書店で2、3冊めくってみると分かりますが、正解はそれぞれでも、不正解はほぼ一致しているのです。だから、不正解は避けなければなりません。
 
 
例えば、「宿題しなさいと命令しない」とか、「親の自分勝手なルールを子どもに押し付けない」とか、その他ありがちな間違いというのは、すでに答えがほぼ出揃っています。この例で言えば、そういったことをすると、子どもの自主性ややる気を失わせ、子どもを混乱させるという理由から不正解に分類されているのです。だから、子育ての「やってはいけないこと」は、親がいくら子どもを思いやってのことだったとしても、いつも不正解のままのはずなのです。もし記事の通り、親が子どもを思って選択したことに間違いがないとすれば、「宿題やりなさいと命令する」という行為も、親が子どもを思っての行動ならば、正解になってしまいます。それではいけません。不正解は不正解と認め、親は改めなければなりません
 
 
では、正解の方はどうでしょう? 私は子育ての正解は複数存在すると思います。なぜなら、親子の組み合わせは複数存在するからです。親の考え方、子どもの考え方がそれぞれある以上、「これこそが正解」というものは見つからないでしょう。あくまで、「この親とこの子の場合はこれが正解でした」という事例でしかないと思っています。
 
 
育児本を読んでわかるのが「この親とこの子どもにはこういうやり方が合っていた」であるならば、「私とこの子にはどんなやり方が合っているか」「私の家庭では、この人のこの方法を応用できるかもしれない」といったふうに、その親子の組み合わせでの正解を模索していくしかないのではと思います。
 
 
こう思う理由も、どの育児本を読んでも、著者の思いが共通しているからです。「うちはこうやりました」「私の家はあんなやり方でした」と成功例や良い事例がたくさん載っているわけですが、どの著者も最初からずっと正解を出し続けていたわけではないと思います。よく子どもを観察して「子どものために何が最適か」を常に考え行動し、反省し、改善を重ねているはずです。だから自分が親になったとき、「悩みながらも少しずつ私たちのケースでの正解を出していく姿勢を持つ」ことを、どの育児本からも学ぶ必要があるのかなと考えています。
 
 
また、この記事では「自分軸で選択せよ」とありますが、少し語弊があるように感じました。確かに最終選択は親がすることに変わりないのかもしれませんが、子育ての方法を見すぎるあまり、実際その場にいる子どもをよく観察することを疎かにしてしまっているような印象を受けてしまいました。親がどうしたいかも大事ですが、子どもがどうしたいかを汲むのも大切だと思います。その上で判断したいなと思いました。
 
 
今回参考として挙げた記事は、かなり悩みすぎてしまっている子ども思いの親御さん向けなので、「大丈夫ですよ」と伝えたくて「まちがいなんてない」と表現したのかなと思います。しかし、なかには自分の都合の良い部分だけを切り取って、堂々と間違った道を進んで行かれる猛者もいますから、自分が変な方向に進まないためにもあえて書いてみました。(そんな猛者は何を読んでもどんどん不正解を重ねていきますけどね、笑)
 
 
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毒親の親も毒親〜毒家系の連鎖を止める方法〜

私の家系は毒続きで、少なくとも2代続く毒親家系です。なんとか私の代で、毒家系だったことを跡形なく消してしまいたいと思っています。そのために何ができるのか、具体的な方法を考えてみます。
 

 よろしければこちらも参考になさってください。

syujin-wife.hatenablog.com

 

 
うちの父は、父親(私から見て祖父)がいわゆるDVで、母親(私から見て祖母)にひどく暴力を振るったらしいです。祖母は私が生まれてからまもなく亡くなっているので、祖父母がどのような関係だったのか、私は直接は知り得ない。聞いた話によると、父が幼い頃からずっとのことだったようで、何度も病院送りになるほどひどかったそうです。そのため毒父の自慢は「俺の親父はおふくろに暴力を振るったが、俺は妻に暴力を振るったことは一度もない」でした。 祖父のDVを知らない私からすれば、「妻に暴力を振るわないのは当たり前で、自慢することじゃない」と思うし、「子どもに暴力振るっていたくせに、よく偉そうにできるな」と呆れるところです。それでも、毒の連鎖を多少弱めてくれたという点においては、少しは評価すべきでしょうか。
 
さて、問題は私の番です。私の父は暴力・暴言屋で、自分の機嫌が悪くなるとすぐ怒り、理不尽に子どもである私や妹たちを責めました。母はそれを止めず(私は妹たちと比べても特に守られなかった)、私に対して無関心な態度を取り続けました。かと思えば過干渉になったりと、とにかくバランスのとれない家庭でした。父に怯え、母に見捨てられた、そういう生活を20年以上していた私が、「どうやってこの毒家系の連鎖を断ち切り、穏やかで平和な家庭を築けるか」。その方法を私なりに模索していこうと思います。
 
今私が考えられるのは、大きく分けて次の3つのステップを踏むことです。
1:自分の傷を癒し、自信と精神力を取り戻す
2:新しい家庭のイメージを具体的にする
3:実践と改善
 
1:毒親と決別し、自信を取り戻す
まずは自分と向き合い傷を癒して、本来持っているはずのエネルギーを取り戻します
(進行中。詳細出来次第、公開予定です。)
 
2:新しい家庭像を具体的にイメージする
自分の気持ちを解放したら、次は新しい家庭の目標をイメージします。特に、親子関係についてどのように捉えるか決めます。同時に、目標となる家庭像、子育ての目標を具体的に落とし込みます。
 
(例)
親子関係とは、それぞれが独立した人間として尊重され、お互い成長し合うもの。
家庭の目標は、明るく、楽しく、自由に!
子育ての目標は、自由!
 
これだけだと抽象的でただの理想論みたいになってしまうので、掲げた目標をもっと具体的な行動目標にしていきます。
(思案中。詳細出来次第、公開予定です。)
 
具体的な行動目標に置き換えることのメリット
「自分は絶対に毒親みたいにならない」と決めていても「毒親みたいに」なってしまうリスクは変わらない可能性があります。それは、毒親みたいにならないと言っている時、イメージしているのが「悪い例え」だからです。では逆に、毒親みたいにならないために「良い例え」をイメージした場合はどうでしょうか。「悪い例えにならないように」と失敗例を考えるのではなく、「こんなふうに行動しよう」という具体的な成功例を行動目標にしたほうが、成功率が上がるでしょう。簡単に言うと、イメージトレーニングのようなものです。
 
3:実践しながら改善
子どもに試す前に、夫婦間で練習してみる
実際に目標とする子育ての成功例を具体的にできたら、夫婦間のコミュニケーション中にも子どもと接するつもりで練習してみると良いです。子ども相手でも大人相手でも、人間を相手にする点では同じなので、どちらにも応用できるはずです。はじめはわざとらしくて違和感があるかもしれませんが、少しずつ自然になってきます。
 
例えば、私の場合は主人の話を聞いている途中で、「それはこういうことでしょ」と善悪の判断を自分基準で下して終わらせてしまう癖があったので、傾聴の練習をしてみました。主人のほうを向いて、話を最後まで真剣に聞き、まずは「そうなんだね」「なるほどね」と言って受け止めます。そのあとで「今の話だと、主人はこう思うみたいだけど、私はこういうところが気になったかな」といったふうに、相手を否定せずに意見の違いを明確にします。私たちの場合、お互い話しながら自分の思っていることがはっきりしてくる場合がけっこうあります。肯定も否定もせずに話していくことで、お互いが気づかなかったポイントに気づいて最終的に着地点が一致したりすることがよくあります。これを(私がこっそり実践)するようになってから、主人は以前よりも楽しそうにたくさん話すようになりました。多分本人は気づいていないでしょうけど(笑)
 
子どもの場合も傾聴の基本的な方法は同じだと思います。ただ子どもは、まだ自分の考えをうまく言葉にできなくて、感情的に表現してしまうことがある点で異なります。そのときは、大人のほうが子どもの気持ちを汲んで寄り添い「そうなんだね。それは嫌だったね。」「そんなことがあったんだね。それじゃあ悔しかったよね。」といったん受け止めます。そのうえで、「お母さんだったらこう思うかもしれないな」「お母さんはこうだと思うけど、どうかな?」と子どもとの違いを挙げて、あとは子どもに考えさせます。子どもも親も、同じ意見になる必要は全くありません。どちらが正しいということはほとんどの場合ないはずだからです。大切なのは、子どもの気持ちをそのまま受け止めるよという肯定的な姿勢をきちんと見せることと、そのあと子どもが落ち着いて冷静に考える余裕を与えることだと思います。
 
 何かの本で、「子育てはビジネスと同じ」と書いている方がいました。子育てをビジネス同様、事業と捉えてPDCAサイクルをまわすようにすると、うまくいく部分があるかもしれません。
 
傾聴の方法はこの本から学びました。

 

馬鹿な毒親への不満をひたすら吐き出す(3)〜家庭の仕事、親の責任を子どもに押し付ける〜

毒親への不満吐き出し第3回。書き始めると止まらなくて困ります。1回目は習い事地獄、2回目は兄弟優劣比較とその報告会について書きました。今回は、家庭の責任を子どもに押し付けてくる毒親の話です。「人の不幸は蜜の味」と思う方も、「私も毒親持ちなのでわかります」という方も、私のただの愚痴ですがお付き合いください。
 
前回までの不満吐き出しはこちら
父「お母さんと妹たちのこと頼むぞ」と言って出勤
帰宅後、「お母さんのこと頼むぞって今朝言ったろ?」と責める
親の面倒見るのは小さい子どもの仕事じゃないんですけどね?
「今日はお母さん風邪っぽいみたいだから、何かあったら会社に電話して」程度ならわかりますよ。でもうちの父が言ってたのは、「家事をしろ」「妹の面倒を見ろ」「母の命令に逆らうな」とプレッシャーをかける意味で言ったのです。毎日。
私はこれを言われるのが本当に嫌で嫌でたまりませんでした。今思い返しても腹がたって仕方がありません。小さな子どもに頼まなきゃいけないほど「ダメな家庭」だったんでしょうね。なんで私だけが犠牲にならなきゃいけないんだ! それとも「妻を思いやる夫」アピールでもしたかったんでしょうか。全く迷惑です。
 
親の病気は子どものせい
母が風邪やインフルエンザ等で寝込むと、父から「お前たち(私と妹たち)がお母さんのいうことをきかないから、お母さんが病気になっちゃったんだぞ。」と病気を子どものせいにされました。さらに、「お母さんがいなくなっちゃったら、この家は誰が切り盛りするんだ?」と子どもの不安を煽ります。しまいには「だから日頃から親の言うことを聞いて、家事をやれって言ってるだろ?」でした。三人姉妹の長女だった私は、ことさらしつこく「家のことをやれ」「妹たちの世話をしろ」と言われてきていますから、母が病気になるたびに、「私が家のことをなんでもやらなくちゃ」とそれはもう恐ろしいほど不安になり、プレッシャーになりました。今考えても、家庭を守るのは両親二人の責任です。子どもの私に仕事をさせるなとまた怒りがこみ上げてきます。
 
三姉妹の長女は一家の責任者
母が腹痛を訴え、経過観察と検査のため1週間入院したことがありました。このとき父は単身赴任で不在。両親は家のことと妹たちのことを、文字通り私に押し付けました。毎日泣きながら寝る妹に寄り添い、暗い顔をして過ごす妹を笑顔で学校に送り出し、妹を連れて母のお見舞いに行き(冬に自転車で30分)、家事をこなし、なんとか1週間耐えました。このとき、妹と一緒になって泣けたら、誰かまともな大人に頼れたら、どんなに良かったかと思います。ただでさえ、もし母に何かあったらと思うと本当に心が押しつぶされそうなほど不安だったのに、急に一家の長にさせられたのです。
 
そして母の帰宅後、誰に労われることもなく、いつも通り「私ちゃんはこれがやってない、あれがやってない」が始まりました。体力的にも精神的にもかなり疲労していて、病院にお見舞いに行けない日がありましたが、そのことも「あんたは妹ちゃんを連れて見舞いにこなかった」「毎日こなかった」と責められました。父からは「お母さんまだ本調子じゃないから、お前頼むな」責任を押し付けられました。このときのなんとも言えない、自分が消えてしまうような、自分の存在を否定したくなるような、消えてしまいたいような、底なしの不安感と罪悪感と義務感と混ざったような苦い感情は忘れられません。母が戻ってきただけでホッとしたのも事実ですが、それと同じくらい嫌な気持ちになりました。(ちなみに妹は「寂しくなかった?よくお母さんがいなくて大丈夫だったね、偉かったね」と心のケアをされていました。)
 
 
私はこうやって20年以上、実家で無駄に消耗し続けていたんだなと思うと、こういった変なエネルギーを使わなくて済むようになった現在、これからは明るく元気に過ごせるようになるのではと将来に期待してしまいます。毒なんて本当いらないです。
 
 

 毒親から解放されたい方はこちらの記事もどうぞ。

syujin-wife.hatenablog.com