【外国語会話のくだらなさ】金にもならない、教養になるかもわからない、一体何を豊かにしてくれるのか

 

数ヶ月前、久しぶりにドイツ人の友人とビデオ通話をした。

 

英語で会話するので十分なんだけど、ちょっとドイツ語を勉強したくなって、「よしドイツ語を独学しよう。」と決めてから、ちょうど3ヶ月が経とうとしている。

 

なんだかんだ言いながら、この3ヶ月間毎日10分の学習が続いている。(いくら数ヶ月という期間をとっても、1日10分しかやらないので進度はめちゃくちゃ遅いです。笑)

 

継続はすばらしいことなのだけど、実は外国語学習のくだらなさにも気づいてしまっている。

 

自分のなかに湧いたそんな気持ちを、素直に綴って考察してみたい。

 

 

 

ドイツ語独学1週間で気づいたこと

「友人とドイツ語で話したいから学習を始めよう」と決めてから1週間。

 

朝起きて、自分のなかで薄々感じていた気持ちをはっきりと自覚してしまった。

 

「ドイツ語がちょっと話せるようになったところで、一体何になるというのか」

 

私はとてもくだらないことをしているんだと、気づいてしまった。

 

 

「私はドイツ語を学びます。」

「彼女は歌うのが好きです。」

「彼は勤勉です。」

 

 

こんな簡単な文が言えてどうなるのか。文法構造を理解して、何になるのか。

 

日本語に直してしまうと「実にくだらない」の一言である。

 

 

 

外国語会話の弱さ?

こんなくだらない文を覚えなくたって、もう英語で十分話せるじゃないか。

 

だいたい、私がターゲットにしているドイツ人が、少なすぎる。

 

世界に10人程度?

 

その人たちと一瞬だけ、彼らの言語で話すために、こんなことをしていると思うと、わりに合わない気がしてくる。

 

いっそ、ドイツ語の独学などやめて、英語のブラッシュアップをした方がいいんじゃないか。

 

いやいや、そもそもなんで外国語である必要があるんだ?

 

日本語でもっとたくさん本を読んで、もっと思考したり、教養を身につけたり、そういう時間にできるんじゃないか?

 

外国語会話の弱さというのは、私の場合、その先に見える報酬が、とても小さく見えることなのかもしれない。

 

仕事で外国語が必要なら、それはもう必死でやるしかない。

 

逆に、英語圏に住んで何十年たっても、英語を話さない人もたくさんいる。

 

生きるために必要がないから使わなくていいという、ひとつの正しい姿勢である。

 

いまの私は、まさにそういう状態だ。

 

日本語と英語だけで十分やっていける。外国に住む予定もない。旅行なら翻訳機で十分だ。

 

(ニュースだって、重要なものは30分もあれば日英はもちろん、世界中で相互に翻訳されたものが流れてくる。最近では、このスピードが印象的だったのは、森喜朗会長の発言をめぐってのニュースですね。)

 

 

 

一体どこに向かっているのか

こう思うようになったのは、今回のドイツ語独学が初めてではない。

 

留学から帰国し、カタカナ英語がペラペラになったときも、ほぼ同じ考えに行き着いたことがあった。

 

ビジネスではまだ足りないが、日常会話には十分なレベル。

 

なんとも中途半端で、帯に短し襷に長し状態。

 

そんなとき、日常英会話なんてバカらしい、くだらないと思っていた。

 

確かに、世界は少し広がったかもしれないが、その先の見通しが甘かった。

 

これが英語が少しできるようになったときの、大誤算、大反省だった。

 

 

 

費用対効果、時間対効果は最悪

それから10年たって、今度はドイツ語でまた同じことをしようとしているんじゃないか。

 

このままドイツ語を勉強し続けても、行き着く先は英語と同じなんじゃないか。

 

英語ですら、せいぜい街中で困った外国人を見かけたとき、ちょっと声をかける程度にしか使ってない。

 

最近は旅行客を見かけないので、さらに使わなくなった。

 

あとは友人とのビデオ通話と、夫の気まぐれ英語学習に一緒に参加するときくらいか。

 

なにかに役立てようと考えることもあまりない。

 

だって英語使うと疲れるんだもん。

 

せめてボランティア活動くらいはしたほうがいいか。

 

とにかくこんな現状では、「英語学習も留学も、お金の無駄、時間の無駄だった」という考え方すらできてしまう。

 

さらに、英語と比べてドイツ語は、話者が一気に減るわけだから、もしかしたら英語より悲惨な未来が待っているかも(笑)

 

YouTube動画を利用して無料で学習できているのがせめてもの救いだが、外国語会話の費用対効果、時間対効果は最悪だ。

 

 

 

それでも情熱を感じるのは

私はきっと、とても幸せに生活ができているから、こんなくだらないことを毎日続けるだけの余裕があるんだろう。

 

さて、この費用対効果も時間対効果も最悪で、それでもただなんとなく情熱を感じるからやっていることをなんと呼ぶのか。

 

趣味だ。

 

そうか、これが私の趣味だったのか。

 

学生時代はなぜか「外国語学習=もっともダサい趣味」だと思いながらいたくせに、それでも情熱を感じてしまうのだから、仕方ない。

 

そのダサい趣味の先に何が見えるかなど、いま考えても意味がない。

 

それが私のなにをどう豊かにしてくれるかなど、想像してどうなるのだ。

 

英語だって、はじめに想像したのとはずいぶん違う結果になったわけだが、ドイツ語が今後私にとってどういう存在になるかなんて、(そもそもいつまでどのレベルまで続けられるのかも)いろんな意味でわからない。

 

もっとおばあちゃんになって、人生を振り返ったときになにか考えることがあるのか、気づくことすらないのか、全然わからない。

 

なにが無駄だったかなど、いま決める必要はない。

 

くだらない、おバカなことを続けている。

 

それでも、なぜかやめられない。

 

なぜだかわからないのだけど、とにかく使えるようになりたいだけなのだ。

 

 

 

結論

 

だから、私の結論はこうだ。

 

 

 

 

『私はドイツ語を学びます。』