"Sorry for my French." 知ってるけど使わない英語と罵り言葉言い換え(婉曲表現)

ドラマや映画で聞いたり、ネイティブが話してるのを聞いたりして、少しずつ口語表現を増やしたはいいものの、結局失礼だったり下品だったりで使えない表現ってありますよね。でも、意味は知っておきたいところです。さらに、汚い言葉を多少上品に、遠回しに言い換えるための婉曲表現も集めてみました。
 
"Sorry for my French." ってどういう意味?
罵ったり汚い言葉を使ってしまったとき、「下品な言葉を使って失礼」という意味で使います。Excuse my French や Pardon my French も同義。
 
初めて聞いたときは、外国語で、F word のFとかけてるのかと思ったのですが、それにしては直接的すぎてフランス語に失礼だしなあなんて思っていました。きっと英仏の仲が悪かった歴史から使われるようになったのだろうと思います。
 
もし日本人である私が使ったら、一部の人にはウケるかもしれませんが、勘違いされたりすると危ないのでやめておきます。
 
 人によっては、「"Sorry for my ◯◯ (アジア圏の日本と仲のよくない印象のある国の言語)"って言えばいいよ」みたいに勧めてくる人もいるでしょうけど、やっぱり私は勘違いされたくないので冗談でも使いません。
 
"Oh my God!" の言い換え
宗教心の強い方は、Oh my God を使わず、代わりに、Oh my my my… と繰り返したり、goodness や gosh で言い換えていますよね。
 
ちなみに、日本人が “Oh my God!” って言うと、「そこは”Oh my Buddha!” でしょ!」ってからかわれたりします。(特に深い意味はありません)
 
罵り言葉を言い換える婉曲表現
Sorry for my French を使わないためにも、f words(cross words, curse words, swear words とも言います。)を言い換えましょう。場面によっては使うのが自然なときもあるとは思うんですが、多用してるとあまり賢くない人に見えます。安全のためにも使わないほうがいいですね。
 
多少上品な表現方法を思いついただけ書いていきます。
最後の「神聖なるうんこ」から「神聖なる牛」への言い換えなんて、もう笑っちゃいますよね(笑) 表現豊かです(笑)
 
f—king → fricking/ freaking 
 
Shit → Shoot
 
Shut the f—k up → Shut the front door/ Shut the pack up
 
Damn it → Dang it
 
What the f—k → What the heck/ fur/ pack
 
Piss (me) off/ F—k off →  Leave me alone
 
Holy shit → Holy cow
 
※ Shut the front door とか Shut the pack up がどのくらい一般的な言い方なのかわかりませんが、罵り言葉の婉曲表現として耳にしたことがあったので、一応載せておきました。
 
おまけ
Piss (me) off を使うとき、”It’s better you piss me off than piss me on.” って言うと、ちょっと笑えるかもしれません。「イラつかせられる(面倒かけられる)方が、おしっこかけられるよりはマシか。」みたいなシャレっぽい冗談になります。まあこれもケンカしたときは使えるかもしれないですけど、基本使い道のなさそうな英語表現ですね。誰かとケンカしちゃったことを他の仲の良い友達に相談するときなんかは使えるかもしれませんけど。うーん、でも、やっぱり使わない(笑)
 
 
 
スペルミスや間違い等あればご指摘ください。
 

毒親から逃げるのが簡単ではない理由〜気持ちが揺らいでしまうとき〜

心身ともに健康な人は「そんなに親が嫌ならさっさと逃げればいいじゃん」と思うかもしれませんが、考える頭を長い月日をかけて毒親に麻痺させられているので、まともに逃げられないのです。DVなどに見られる夫婦や恋人関係と似ていて、共依存の関係にあるようなものです。変な刷り込み教育をされたおかげで、毒親が望むこと以外をするときは、仮に正しいことをしたとしても、つねに罪悪感を抱えることになります。
 
自分の親が本当に毒親なのかわからなくなる
世の中にはもっとひどい虐待を受けている子や、ひどい扱いを受けてきた人もいるんだから、自分の場合は当てはまらないのでは?と揺らいでしまう。また、親が絶対に正しいという教育を受けてきているため、自分がおかしいのかもと疑ってしまいます。そして、「しつけのため」「自分のためにそうした」と親の言葉を信じてしまっていて、勝手に「他の家もこんなものかな」「自分がまだ大人になりきれないから」とか思い込んでいます。
 
恩もあるし、、と思ってしまう
「逃げなきゃ!」「逃げよう!」と決意したはいいものの、実際に家を出るときになると「それでも育ててもらった恩があるよな」と急に後ろめたさが襲ってきます。
 
義務感と無力感から逃げられなくなる
「子どもは親を大切にしなければならない」「親に逆らってはいけない」「お前は一人ではやっていけない」と幼少の頃から刷り込まれているので、逃げようとしても怖気ずいてしまうのです。
 
過剰に顔色を伺ってしまう
仮に親がおかしいのではと疑って逃げたところで、もし逃げたら今後どう言われるかと考えすぎて、恐怖で動けなくなります。実際逃げたあとも「親はどんな顔してるだろう」と不機嫌な親の顔を想像しては、「親の思い通りになれなかった自分」に罪悪感でいっぱいになります。
 
物理的に距離を置いた後も逃げられない
親から離れて暮らしてからも、毒親の精神的な呪縛から逃れるのには長い時間を要します。私は実家を出てから約5年たちますが、はじめの数年は毒親への罪悪感から不安で怯えていました。そして、生活のあらゆる面で、どれだけ毒に侵されていたのか気づきます。今もまだ完全には抜けきっていません。
 
親が変わってくれたかもと期待を抱いては傷つく
お互い距離を置いて時間がたち、生活が落ち着いて精神的にも安定してくると、なぜか「もしかして親も私の気持ちをわかってくれたかも」と幻想を抱きます。もちろんそんなことは起こりえません。数年離れて暮らしたくらいで変わってくれる親なら、もうとっくの昔に良親になっていたでしょう。
 
結局は傷つくので接触しないのが最善策
会って話をしたあとは、とにかくぐったりしてしまいます。話題がなんであれビクビクしながら対応しているので、その後はとんでもない疲労感です。そして数日してから、「あ、まだ自分は親に恐怖を感じているのか」と気づきます。だから、両親との良い思い出や恩は大事に受け取って次の世代に返し、いまも私を精神的に縛りつけようとする人たちからはきっちり距離を置こうと決めています。もちろんまだまだ揺らぎますけど。気をしっかり持たないと。

毒親に育てられた人が親になるときの心構え

毒親持ちの私が親になるときは、なんとか踏ん張って不幸の連鎖を断ち切りたいと思っています。余裕がなくなると、つい自分の親と同じ言動をとってしまうのではという不安がついてまわります。そんなときに思い出せるように、自分なりの心構えをメモしておきたいと思いました。
 
親は家庭の神様ではない
子どもは一人では生きていけない非力な存在であることは確かですが、子どもが非力だから、親が絶対の権力となって良いという意味ではありません。親が「生んであげた」「一人じゃ生きられないから」といって、「逆らうな」というのはおかしな話です。そもそも、子どもは親を、家庭を選べないのだから、「生んであげた」なんて非常におこがましいですね。そんなことを言う親には「親のわがままで、ここに住まわされている」なんて子どもが言う日がきても、何も言い返せません。
 
親しいなかにも礼儀あり
乳児の頃はただ可愛いだけだったのに、イヤイヤ期や反抗期がくると、子どもだからといって、接し方や態度、言葉がきつくなるときがあると思います。そんなときこそ「親のわがままで、我が家にお迎えしている」というくらい謙虚な気持ちを持って、対応したいものです。間違っても支配的になってはいけません。
 
家庭は小さな社会
「親子だから」と思うと、まるで距離が近くて特別な関係で、「親は子どもの所有物だから何をしても良い」と勘違いする人がいるかもしれません。でも、一般社会でそれをやったら白い目で見られるか、場合によっては刑務所行きでしょう。たとえば、「一人のおじさん(父)と一人のおばさん(母)と、小学生の男女(兄妹)」みたいに、家庭には年齢や性別の違う人間が、ランダムに集められたと思いましょう。そう考えると、血が繋がっていてもそうでなくても、一緒に暮らす同居人に失礼な態度をとらないでおこうと思えるはずです。また、小さな社会で成功体験を積んでいる人は、外の社会でもたくましく行きていけるだろうと思います。
 
子どもも立派な一人の人間
おそらく毒親は、親子という関係に甘えて、距離が近くなりすぎてしまうんだと思います。年齢や性別に関係なく、お互いが精神的に独立した一人の人間であることを認め、尊重し合うのが理想です。支配的な言動をとってしまったと気づいたら、同じ人間として謝罪しましょう。
 
「授かりもの」だけど「預かりもの」
子どもは授かりものと言われますが、親は子どもを自分のものだと勘違いして、過干渉になったり支配的になってしまうと困ります。一緒に住んでいられるのもだいたい20年くらいです。子どもが社会に出るまで責任を持って「預かり」、社会に「お返しする」という気持ちで子育てに臨みたいものです。一緒にいる約20年の間にたくさん良い思い出を作って、「安心して暮らせて楽しい家だったな」と思ってもらえたら万々歳です。
 
 
 
また思いついたら追記していきます。

「学校だと声が小さい」って言わないで〜子どもの人見知り、恥ずかしがり屋でも大丈夫〜

みんなの前で発表するときなど、学校にいるときは声が小さい子っていますよね。特に幼稚園から小学校低学年くらいまでに多いと思います。もちろん、もっと年齢が上でもそういう方はいらっしゃいます。でも、本人は頑張って周りと同じようにやろうとしているので、決して責めず、肯定的に見守ってください。
 
いいところを褒めよう
例えば授業参観に行ってみたら、「うちの子は挙手しないし発表しなかった」「発表してたけど、声が小さいって先生に注意されていた」ということがあると思います。ついついできなかったことや、不足しているところに目が行きがちですが、できたことに目を向けてあげてください。「頑張って発表してたね」「真剣に取り組んでたね」と褒めてあげてください。
 
せっかく親御さんの前でカッコイイところを見せようと頑張ったのに、ダメだしされたら自信をなくして不安になり、それがきっかけでやる気をなくしてしまうこともあります。もしくは、次こそはとやる気を出しているように見えても、それは心からの前向きなやる気ではなく、「親にダメだしされないためのやる気」になってしまいます。これに心を蝕まれると、それがさまざまな障害を引き起こします。
 
人見知り、恥ずかしがり屋=引きこもり では絶対にない
人見知りは一般的に、10歳くらいまでみられるものです。また、それ以降の年齢でも、恥ずかしがり屋、内気な性格の子がいてもなんら不思議ではありません。そして、それ自体が問題になることはありません。問題なのは、親や周囲の大人がそれをネガティブなことだと教えることで、本人までその性格や性質が悪いことだと認識してしまうことです。私は小学校3年生くらいまで人見知りが激しかったです。毒両親からは、「お前は声がちっちゃい」「家ではでかい声でしゃべるくせに」とダメだダメだと散々言われましたが、大学では留学に行って、現地の学生に混じってクラスで発言したり、スピーチしたりが平気になってしまうほど、人見知り、恥ずかしがりなんて勝手になくなりました。それでも自信がないときはまだ声小さくなりますけど。
 
アメリカなんかだと、自分のアイデンティティをしっかり主張しますから、一見みんなが社交的に思えるかもしれませんが、実際は「私は別にシャイではないけど、物静かなだけ」なんてサラッと言っちゃうおとなしい人もいるくらいです。テレビでよくみかける有名な女優さんや俳優さんでさえ「私は人見知りな性格です」っておっしゃる方もいますよね。人見知りだからあなたなんとかしてよっていうのでは困りますけど、別にただの性格なだけで、生きるのになんら問題はありません。うちの毒親みたいに、「人見知りが治らないと引きこもりになる」と信じている人が果たしているのかもわかりませんが、そんなことありえません(笑)
 
堂々と「シャイです」と言わせてOK
声が小さいこと=悪いことになってしまうと、発言すること自体が嫌になり、さらには自尊心をダメにしていきます。私も親に言われすぎたせいで、神経質になってしまって、アラサーになった今でさえ、外で話すときは気にしてしまいます。逆に英語のときは、親に押し付けられた価値観の世界を出られるからなのかわかりませんが、日本語のときよりオドオドせずにはっきり話せてる気がするんですよね。無意識なんですが。
 
どうでもいいことを、親の価値観だけを理由に押し付けても、何も良い結果を生みません。この際、「私はみんなの前で発言するのが得意じゃありません」「私はこういう場面だと声が小さくなっちゃう」と堂々と胸を張らせてやるくらいでちょうどいいんですよ。「どんな性格のあなたでも、お父さんお母さんは受け入れるよ」と表現し続けてください。私は必ずそうすると誓います。
 
また、外だと声が小さくて悩んでいる方は、まずはそれでもいいと開き直るくらいのつもりで自分を肯定してあげてください。何度も言いますが、それ自体はなにも悪いことではありません。どうしても必要に迫られれば大きな声で話せるようになるはずです。もしまだそうでなければ、それはまだ必要なタイミングじゃないだけです。それでいいんですよ。大丈夫です。

毒親から逃れて憧れの家庭へ〜安心して話し合いができる家は親子ともに成長できる〜

私は昔から、ニュースでもアニメでも、何かのトピックについて話し合ったりできる家庭に憧れていました。なぜなら現実は、さすが毒親。ニュースを見ていて私が「これはこうなの?」「あれはああだからかな?」と言うと、「違うだろう」「馬鹿じゃないの」「さあ知らない」と、不機嫌、否定、無関心でほとんどの話題を消されてきたからです。それが毎度のことだったので、中高生以降は思ったことがあっても何も言わなくなりました。何か感じたことや思ったことを口にして傷つくのが恐かったからです。
 
例えば私が小学校低学年の頃、通学時に見たある政党のビラに「日本はアメリカの言いなりをやめよう」という趣旨のことが書かれていました。単純に疑問を持った私が、「ねえねえ、日本ってアメリカの言いなりなの?」と聞くと、ひどい剣幕で「誰がそんなこと言ったんだ! 学校の先生か!」と怒り始め、私が説明すると「なんだ。ったくしょうがねえな。」と馬鹿にしたような見下したような言い方をされて会話は終了しました。
 
そのくせ、新聞を読め、ニュースを見ろと強要し、一体インプットだけさせて何がしたかったのか、全くわかりません。
 
でも、いまの家は違います。わりとなんの話題でも、お互い興味のあることは素直に意見を出し合えます。
 
直近のトピックは「子どもにテレビは必要か」でした。私たちは現在、テレビを所有していません。はじめは、私は「不要」と言い、主人は「テレビ垂れ流しも必要」と言っていて、意見が割れていました。でも、お互い意見を出し合っていくうちにたどり着いたのは「ものがテレビであれなんであれ、子どもが何に興味を持っているのかよく観察し、必要なものを適切なタイミングで提供することがもっとも重要」という結論でした。だから結局、テレビ自体はその時期が来たら臨機応変に導入を検討しよう、というところに落ち着きました。使い方次第でメリットデメリットありますしね。テレビ要不要の議論から始まって、もっと根幹の部分にたどり着けたのは大きかったと思っています。
 
もう1つ最近のやりとりで印象に残っているのは「ら抜き言葉をどう思うか」です。実は、私が高校生くらいのときに、実家でも同じ話題が出たことがありました。といっても、このときはテレビの特集かなにかでやっていて、親が一方的に「ら抜き言葉はみっともない。ダメだこんなの乱れてる。」と一蹴して終わっただけでした。もちろん私は何も口を出しませんでした。
 
しかし、実際には私は、「ら抜き言葉を使うのは合理的な理由がある」と思っていて、かつ「言葉は少しずつ変化していくもの」だから「変化を受け入れる姿勢も必要かもしれない」と思っています。ただ、私自身は変化に寛容でありながらも、現時点では公式に認められていないものであることと、一定数の人は不快に思うことを考慮して、自分ではら抜き言葉は使わないつもりでいます。
 
そんな話をしたら、主人は私の答えが意外としっかりしていたことに感銘を受けてくれたようで、照れくさいけど私は正直嬉しかったんです。それ以外にも、本を読んで思ったことや、生活していて感じたこと、いろんな話題を共有したり、議論したりできます。健康な家はこれが当たり前なのかもしれませんが、くだらない話題からそうでない話題まで、怯えることなく考えを出し合えるのが、私にとってはとても楽しいのです。
 
 話題はなんでも良いし、私たち夫婦二人で話していても、同じ意見になるときばかりではありません。でも、話してみると、自分では思いつかなかった見方をできたり、アイディアを聞けたり、と発見がたくさんあって面白いなと思えるのです。もしここに子どもがいたら、また何か違った新しい見方を話してくれるのではないかという可能性を考えると、もっと面白いと思います。
 
子どものいる家庭では、親子というくくりだけで見ないで、違う世代の人が住んでいるという見方もしたいものですね。違う人格、違う年齢、違う職業の人たちが集まって、安心して価値観をみんなで前向きにシェアできたら、親も子どもも成長できる。しかも、子どもは年齢の離れた人とも自信を持ってお話しできる人間になれると思うし、自分の価値観も相手の価値観も尊重し、認め合えるようになる。さらにいえば、親世代の考え方との違いなどを冷静に客観的に分析するようになる可能性も十分にあると思います。家庭だからできるこのチャンスとメリットはぜひ生かしたいものです。

 

原因論を目的論に〜『嫌われる勇気』を読んでうつ病を楽に受け入れる方法〜

うつ病になったせいで、周囲の人と同じような経歴を辿れなかった。自分は他の人より条件が悪いせいで、人生がうまくいかない。そんなふうに悲観的に捉えていました。でも、原因論で考えるだけでなく、目的論にそって考え直してみると、案外すんなりありのままの自分を受け入れられるようになりました。はじめは戸惑うかもしれませんが、原因論で悩んでいる方は、目的論を使ってちょっと発想を変えてみると楽になるかもしれません。以下、私の場合を具体例としています。

 
目的論の考え方
アドラー心理学では目的論の考え方をとるそうです。
原因論だと、うつ病のせいで活動ができない
目的論だと、うつ病のおかげで活動しなくて良い もしくは 活動したくないからうつ病になった
ということになる。
 
はじめて目的論で考えたときには
「違う! なりたくてうつ病になったんじゃない!」
と叫びたくなりました。
 
でもここ最近、症状が落ち着いてきてからは、
「ゆっくり休んでいろんな傷を治療できて良かった」
「この休みの時間は必要だったんだ」と思えるようになってきました。
 
こうやって受け入れられるようになってから、改めてアドラー心理学の目的論に当てはめてみると、すんなり納得がいきました。
 
私の場合は、就職活動が始まる前にうつ病になりました。もしうつ病になっていなかったら、確かにどこかには就職していたでしょう。でも、きっと体調不良で3日ともたなかったはず。数ヶ月仕事ができていたとしても、いつかどこかで破綻していたと想像します。そして両親からも執拗に叱責されていたでしょう。
 
でも、うつ病になったおかげで(もううつ病の症状にはコリゴリではありますが)、「休まなきゃいけない」ということがわかったし、毒親である両親との関係も見直すきっかけになりました。
 
だから、「うつ病のおかげで休みを得られた」「休みを必要としていたからうつ病になった」、といった表現がしっくりくるなと思いました。
 
うつ病再発の不安も和らげてくれる
そしてもし、原因論で考えると、「またうつ病になったら病気のせいで活動できなくなる」といって、再発に不安を感じやすくなります。しかし目的論で考えると、「もしまた活動できなくなったら、それはお休みしないといけないときなんだ」といえるので、受け入れやすくなります。
 
苦手を受け入れやすく
他にも、混んでる電車や人混みが極端に苦手だったり、大人数いるところでのコミュニケーションが好きではなかったり、いろんな苦手が存在します。このときも、原因論で考えると「これのせいで外出できない」とか「これさえなければ仕事ができるのに」とか言いたくなりますが、目的論で「仕事したくないから苦手を作り出している」と仮定してみます。
 
はじめはやっぱり、「サボりたがり」のような否定的な響きがしますが、そういうことではありません。「電車通勤や混雑する場所での勤務を望んでいない」という自分の希望がはっきりしてきます。じゃあ、自分は大多数の人よりも仕事の条件が多くなってしまうかもしれないけど、どういう仕事だったらできるか? と前向きに考え始めることができます。

 

強い人には通用しない?

ところで、主人とこの話をしたところ、「こう言っちゃあなんだけど、この2つの違いは重要なの?」と聞かれました。私にとっては重要な違いなんですが、主人いわく「俺のように図太い神経を持っていれば、不可能性についてどんな言い方をしても関係ないよ。」と笑っていました。

 うつ病のせいで活動できないにしても、活動したくないからうつ病になったにしても、「寝たほうが良いに変わりはないんだから堂々と寝てれば良い」ということでした。考え方の出発点はさておき、主人のほうが早く「じゃあどうすれば良いか」という解決策を導き出そうとしているみたいですね。しかも、「堂々と寝てれば良い」って(笑)すでに自分の考えや行動に自信のある方には必要のない思考法かもしれませんね。

私はつい言い訳がましく自分を正当化しようとしがちなので、素直になれる考え方の1つとして使っていくつもりです。

  

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

 

 

毒親を持つ人に読んでほしいオススメの本〜毒親育ちが親になるとき〜

毒親に悩んだ人が親になり、子どもを持とうとするとき、一番心配なのは、「自分も毒親と同じことをしてしまったらどうしよう」という不安だと思います。そのときに、自分をどう健康に保ち、子どもとどう良好な関係を築くのか。そんなヒントを与えてくれるおすすめの本の紹介です。もちろん、親にならない方にもオススメです。

 

嫌われる勇気

過去にとらわれず、自分の人生を自分で変えていって良いと背中を押してもらえる本。トラウマに悩まされたり、毒親の価値観と本来の自分との間に挟まれて苦しい思いをしているときに、自分は自分、幸せになっていいんですよと教えてくれます。健全な家庭でのびのびと育った人は、だいたいこの考えを基礎的に持っている気がします。初めて読んだときは、私の主人が書いたのかと思うほど、いつも主人から言われていることがたくさん書いてあって驚きました。健康な人の考え方を学べる本です。

また、直接本の概要とは関係ありませんが、本の中で青年が哲人に対し、失礼な言葉を詫びるシーンがあります。そこで哲人が、「気にすることはありません。プラトンの対話篇をお読みになるといいでしょう。ソクラテスの弟子たちは、驚くほどあけすけな言葉と態度でソクラテスと語り合っています。本来、それが対話のあるべき姿なのです。」(p.57) と答えています。親子、家族で何かについて話し合うとき、それぞれが素直に自分の意見を出し合える家にできたらいいなあと勝手に妄想していました。

 

毒になる親

言わずと知れたベストセラー。きっぱり決別まで考えている人も、そうでない人にも。『嫌われる勇気』と同様、人(毒親)を変えることはできないが、勇気があれば自分を解放することはできると言っています。日本、海外問わず、毒親は世界中に存在し、パターンはどこも同じなんだなと妙に納得してしまいます。

 

愛着障害 子ども時代を引きずる人々

特に母親との関係が健全に築けなかった人向けです。

これを読んで、多くの偉人も親との関係が不安定だったと知りました。

最後の解決策で、これから一緒に家庭を築くパートナーと、安定した家庭を持つことで癒されていくというようなことが書かれていました。実際、私は偶然にもその形をとることになりましたが、少しずつ回復に向かっているので、大正解という感じです。

この本は、解決策を求めるというよりは、親との愛着関係が脆いとどうなるか、回復させるのにどうするか、その基本となる考えを学べる本です。

 

無理して学校へ行かなくていい、は本当か 今日からできる不登校解決メソッド

なんで不登校の本?と思うかもしれませんが、中に書いてある対話例が、子どもの自立を阻む毒親の言葉だったりします。健全な親子のコミュニケーションを知らないで育った私のような人が親になるとき、子どもの話にどう耳を傾けるか、親の考えを押し付けることなく伝えるにはどうしたら良いか、傾聴の具体的な方法がわかりやすく書かれています。自分や子どもが不登校の経験有無にかかわらず、健全な家庭のコミュニケーションを知るのに役立つ本です。 

 

 

親との関係に悩んでいる真っ最中だったり、完全に割り切れていないときは、読むと精神的にけっこう消耗するかもしれません。でも、こういった本を手元に置いておいて、少しずつ何度も読み返すことで、免疫がついたり、自分の中で健康な家庭のイメージが湧きやすくなったりします。少しでも助けになれば嬉しいです。この他にも、健康や子どもの教育についてたくさん本を読んでいるので、またオススメがあれば随時更新したいと思います。