【子育て】 ほめるより、過程の努力と成果を喜ぶ気持ちに寄り添うことにしています

保育士でベビーシッターをしています。

 

今日は、私が「ほめる保育」よりも「努力と成果の喜びに寄り添う声かけ」に努めているというお話です。

 

・題の通り、私は「ほめる保育」をしていません。

理由は以下の2つです。

1:上から目線で他人を評価しているような感じがするから。

2:過程よりも結果を評価してしまうことが多い気がするから。

 

例えば、子どもが絵を描いたとします。

子どもは得意げに「見て、見て!」と持ってきてくれます。

もし褒めるとしたら、「うわぁ!上手に描けたね!」

と言うかもしれません。

 

悪くはないですし、子どもも満足すると思います。

正直に申し上げると、私も以前は上記のようにほめていました。

 

・しかし、次第にその違和感に気づいていきました。

 

まず、理由1:上から目線で他人を評価している気がする点。

先の例で言えば、大人が子どもの絵を「上手」と評価しているわけです。

美の価値観はそれぞれですが、誰かが描いたものを「上手」とか「下手」とか評価できるほど、自分はえらい人間じゃないやと思いました。

加えて、「他人から評価されること」を覚えてしまうのではないかと疑問を持ちました。

 

次に、理由2:過程よりも結果を評価する言い方になりがちな点。

同じく先の例で、「上手に描けた」のは結果です。でも、「一生懸命描いたね!」と言われたらどうでしょう? 出来の良し悪し(結果)はさておきとして、「頑張って描いたんだよ!」っていうところ(過程)を、子どもは見てほしいんじゃないか、と。

 

そして、これってどの方面においても、子どものやる気と自信につながるのではないかと思ったのです。

 

スポーツで良い記録が出なかったとか、コンクールで賞がもらえなかったとか、思うような結果が出ないことがあるでしょう。

 

そんなとき、「上手に」「できたね」という『他人軸』で声かけをしていたら、人からの評価を気にしてしまって、ちょっと弱いんじゃないか?と思うのです。(もちろん、人それぞれというのは大前提ですが。)

 

・「努力した」「嬉しい(悔しい)」の気持ちに寄り添う

 

では代わりに、「一生懸命」「やったね」という軸ならどうでしょうか? 競争相手が強かったり、専門家の評価が厳しかったり、他人との関係のなかでは、自分は振るわなかったかもしれない。でも、『自分軸』ではやりきった、のであれば、なんだかスッキリしているように感じませんか。

 

だから私は、「自分軸では頑張ったんだ」という気持ちを、目一杯受け止めてあげたいなと思っています。

 

結果が出た時も「毎日よく頑張ってたもんね」(過程の努力)と「私も嬉しいよ」(子どもが喜んでいる気持ちへの寄り添い)といった声かけを意識しています。

 

子ども自身が「あ、できると自分は嬉しいんだな」「そっか、自分頑張ったのか」と、自分の気持ちや行動に気づけるようになるのかと思います。そうすると、自分がしたことを見てもらえたという自己肯定感に加えて、自分で自分を内省できるようになると、他人の気持ちを想像できるようになるという、優しいオマケもついてくるのではないでしょうか。

 

・まとめ

「上手ね」と褒めるのも悪くありませんが、「◯◯を頑張ったね」「嬉しいね」と、もっと具体的に子どもの過程の努力、成果への喜びに寄り添う、といった接し方で、子どもの折れにくい心を育てていけたらと思っています。

 

 

日々、反省と改善。

子どもたちは私の先生です。

 

 

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