毒親から逃れて憧れの家庭へ〜安心して話し合いができる家は親子ともに成長できる〜

私は昔から、ニュースでもアニメでも、何かのトピックについて話し合ったりできる家庭に憧れていました。なぜなら現実は、さすが毒親。ニュースを見ていて私が「これはこうなの?」「あれはああだからかな?」と言うと、「違うだろう」「馬鹿じゃないの」「さあ知らない」と、不機嫌、否定、無関心でほとんどの話題を消されてきたからです。それが毎度のことだったので、中高生以降は思ったことがあっても何も言わなくなりました。何か感じたことや思ったことを口にして傷つくのが恐かったからです。
 
例えば私が小学校低学年の頃、通学時に見たある政党のビラに「日本はアメリカの言いなりをやめよう」という趣旨のことが書かれていました。単純に疑問を持った私が、「ねえねえ、日本ってアメリカの言いなりなの?」と聞くと、ひどい剣幕で「誰がそんなこと言ったんだ! 学校の先生か!」と怒り始め、私が説明すると「なんだ。ったくしょうがねえな。」と馬鹿にしたような見下したような言い方をされて会話は終了しました。
 
そのくせ、新聞を読め、ニュースを見ろと強要し、一体インプットだけさせて何がしたかったのか、全くわかりません。
 
でも、いまの家は違います。わりとなんの話題でも、お互い興味のあることは素直に意見を出し合えます。
 
直近のトピックは「子どもにテレビは必要か」でした。私たちは現在、テレビを所有していません。はじめは、私は「不要」と言い、主人は「テレビ垂れ流しも必要」と言っていて、意見が割れていました。でも、お互い意見を出し合っていくうちにたどり着いたのは「ものがテレビであれなんであれ、子どもが何に興味を持っているのかよく観察し、必要なものを適切なタイミングで提供することがもっとも重要」という結論でした。だから結局、テレビ自体はその時期が来たら臨機応変に導入を検討しよう、というところに落ち着きました。使い方次第でメリットデメリットありますしね。テレビ要不要の議論から始まって、もっと根幹の部分にたどり着けたのは大きかったと思っています。
 
もう1つ最近のやりとりで印象に残っているのは「ら抜き言葉をどう思うか」です。実は、私が高校生くらいのときに、実家でも同じ話題が出たことがありました。といっても、このときはテレビの特集かなにかでやっていて、親が一方的に「ら抜き言葉はみっともない。ダメだこんなの乱れてる。」と一蹴して終わっただけでした。もちろん私は何も口を出しませんでした。
 
しかし、実際には私は、「ら抜き言葉を使うのは合理的な理由がある」と思っていて、かつ「言葉は少しずつ変化していくもの」だから「変化を受け入れる姿勢も必要かもしれない」と思っています。ただ、私自身は変化に寛容でありながらも、現時点では公式に認められていないものであることと、一定数の人は不快に思うことを考慮して、自分ではら抜き言葉は使わないつもりでいます。
 
そんな話をしたら、主人は私の答えが意外としっかりしていたことに感銘を受けてくれたようで、照れくさいけど私は正直嬉しかったんです。それ以外にも、本を読んで思ったことや、生活していて感じたこと、いろんな話題を共有したり、議論したりできます。健康な家はこれが当たり前なのかもしれませんが、くだらない話題からそうでない話題まで、怯えることなく考えを出し合えるのが、私にとってはとても楽しいのです。
 
 話題はなんでも良いし、私たち夫婦二人で話していても、同じ意見になるときばかりではありません。でも、話してみると、自分では思いつかなかった見方をできたり、アイディアを聞けたり、と発見がたくさんあって面白いなと思えるのです。もしここに子どもがいたら、また何か違った新しい見方を話してくれるのではないかという可能性を考えると、もっと面白いと思います。
 
子どものいる家庭では、親子というくくりだけで見ないで、違う世代の人が住んでいるという見方もしたいものですね。違う人格、違う年齢、違う職業の人たちが集まって、安心して価値観をみんなで前向きにシェアできたら、親も子どもも成長できる。しかも、子どもは年齢の離れた人とも自信を持ってお話しできる人間になれると思うし、自分の価値観も相手の価値観も尊重し、認め合えるようになる。さらにいえば、親世代の考え方との違いなどを冷静に客観的に分析するようになる可能性も十分にあると思います。家庭だからできるこのチャンスとメリットはぜひ生かしたいものです。