結婚後に気づいた『私は毒親から名前で呼ばれていなかった』

 

子どもは親の所属物だと思っている私の両親。

 

対して、子どもか親かに関わらず、一人一人に丁寧に接する夫の両親。

 

結婚して、夫の両親にちょくちょく会うようになって、初めて気づいた。

 

「夫家では、子どもは親から名前で呼ばれてる?」

 

「私、両親から名前で呼ばれてなくない?」

 

約30年の間、私は名前で呼ばれないことに違和感を持つことさえなかった。

 

それが当たり前だと思っていたから。

 

だけど、それに気づいてしまってから、用事があって仕方なく短時間だけ実家に帰ると、悲しい気持ちになってしまう自分がいる。

 

 

 

 

父からは、お前。

 

母からは、あんた。

 

と呼ばれる。

 

姉妹間で区別が必要なときだけは、花子、英恵、みたいに名前で呼ばれるが、基本的に名前で呼ばれることはない。

 

父が姉妹全員を呼ぶときは、お前たち。

 

母が姉妹全員を呼ぶときは、あんたたち。

 

 

 

母がよく言う。

 

「小さいころは可愛かったのに。」

 

「しゃべるようになったら、だんだん生意気で憎たらしくなってきた。」

 

両親のいう"可愛かったころ"には、普通に「花子〜」みたいな感じで、私は両親から名前で呼ばれていたようだ。

 

その様子がホームビデオに残っている。

 

しかしいつからか、父はホームビデオのなかで

 

「アイツはダメだやる気がない」

 

「あれは大したもんだな」

 

など、私のことを「アイツ」「あれ」と呼んでいる。

 

そういえば、妹のこともそんな風に呼んでたな。

 

 

 

田舎出身だから?

昔の人だから?

 

でも夫の両親も田舎出身だし、年齢も変わらない。

 

私の友人両親だってそうだ。

 

やはり、うちの両親の考え方の問題なのでは。

 

理由はなんにしろ、子どもの名前を呼ばずに、「あんた」「お前」と表現することは、すなわち、「子どもを一人の人として尊重しよう」という考えを持っていないことを示唆しているのかもしれない。

 

 

 

夫が両親から必ず名前で呼ばれるのが、羨ましい。

 

例えば、ヒロキという名前なら「ヒロ」、ショウゴなら「ショウ」みたいに省略して呼ぶことはあっても、決して「あんた」などと呼んでいるのを聞いたことはない。

 

この記事を書きながら、ふと気になって夫に

 

「あなたと兄弟をまとめて呼ぶときは、両親はなんて呼ぶの? お前たちって言う?」

 

と聞いたら、

 

なんと夫は、お茶を吹き出してしまった。

 

「お、お前たち?(笑)」

「一度も呼ばれたことないなあ(笑)」

 

そんな呼び方をするなんて、ずいぶん偉そうだなと「お前たち」を連呼しながら、笑いが止まらない夫。

 

落ち着いてから、

 

「普通に名前呼びだよ。"ショウとヒロ"って。」

 

と答えてくれた。

 

 

 

よほど偉そうだというのがツボに入ったのか、はたまた私の両親のやり方が気に入らないのか、夫はこれをネタにして笑い始めた。

 

「今度、両親のことを"お前ら""あんたたち"って呼んでみたら?」

 

「お前たちは昼ごはん食べたんですか?」

 

「あんたたち、これ食べますか?」

 

って。

 

呼び方は極めて雑なのに、敬語なところが滑稽だ。

 

「もし"なんだ親に向かってその呼び方は!"って怒られたら、"親に習いました"って言えばいいじゃない!」

 

と、まだ笑っている夫。

 

 

 

夫には、お茶を吹き出してネタにするくらい、笑える話だったのか。

 

私もつられて笑ってしまったけど、親から名前で呼ばれるって、そんなに普通のことなの?

 

私は、親から名前で呼ばれていなかった。

 

悲しいなあ。

 

 

 

自分の子には、その分ってわけじゃないけど、たくさんたくさん、名前で呼びたい。

 

思い入れがあってプレゼントした大事な名前だもの。

 

呼ばないなんて、もったいなすぎる!!!

 

 

 

名前にまつわる余談

 

そういえば、夫は胎児ネームに「さん付け」して呼んでいた。

 

丁寧な呼び方で気に入ったので、私も自然と真似をしていた。

 

夫のこういうところは、見習いたいなあと思う。

 

 

 

ちなみに、私は両親からもらった名前自体はめちゃくちゃ気に入っている。

 

母はあとからなにかとケチをつけてきたが、そんなことはどうでもいい。

 

私は、自分の名前の漢字も意味も気に入っているんだ。

 

しかも私の名前は、夫の姓になってから、姓名判断の運勢がさらに良くなった。

 

占いは、信じるのではなく、使うもの。

 

これから人生をより良いものにできるように、いろんなことに挑戦していきたい。

 

 

 

【妊娠9ヶ月】電車で席を譲ってもらって嬉しかったので感謝の気持ちを伝えたい

 

 

妊娠9ヶ月。

 

もう少しで産休に入るところ。

 

普段から電車で仕事に通っているけれど、ラッシュ時にはあたらないよう勤務時間を調整してもらっているので、基本的には座れないほど混雑した電車に乗ることはない。

 

妊婦健診も同じく、混んでいる電車には乗らない。

 

それでもときどきは、ちょっと時間が予定よりズレてしまったり、たまたま混んでいる車両に乗ってしまうこともあった。

 

 

 

その日は仕事帰り。

 

引き継ぎなどもあって少しいつもより勤務時間が延びてしまった。

 

加えて、乗り換えの都合などで、普段なら乗らない車両に乗ることになった。

 

帰宅ラッシュの時間でとても混んでいた。

 

ドア付近だと危ないかなと思い、手すりにつかまれるよう車両の中のほうに移動した。

 

ちょうどその1週間前に同じ路線に乗ったとき、列車が急停車して座っていても衝撃だったので、少し警戒していたこともある。

 

手すりにつかまろうとしたとき、その目の前に座っていたスーツ姿の中年の男性が「座ってください。」と言って席を譲ってくれた。

 

妊娠してから初めて席を譲ってもらった。

 

全く期待も予想もしていなかったので、正直はじめは驚いた。

 

すぐに「ありがとうございます。」とお礼を言って、それから座らせてもらった。

 

 

 

だんだん、嬉しさが込み上げてきて、電車内では泣くのを我慢するのに精一杯だった。

 

コロナ渦の妊娠生活で、野生の凶暴な動物になったんじゃないかと思うくらい、超神経過敏の状態だった。

 

例えば、誰かに話したことはないけれど、私はきっと"マスク警察"と呼ばれる部類の人間なんじゃないかと思っている。

 

周囲を見回しては、正しくマスクを着用していない人に対して、心のなかで「うわ、危ない!」などと判断しては避けて。

 

声には出したことはないから、"隠れマスク警察"くらいなもんか。

 

 

それからマタニティマークも、トラブルに巻き込まれてはいけないと思い、全然目立たないところに付けていた。

 

リュックの背中側なので、背負っているときは見えないし、おろして前に抱えても見えない。

 

ミニショルダーにも付けてはいるけど、外にはプラプラさせずに、なかにしまっていた。

 

緊急時に妊婦だと気づいてもらえればいいや、という使い方だった。

 

緊急時以外に誰かに「妊婦だと気づいてもらおう」という考えがもともとなく、それよりも「妊婦だとわかれば嫌がらせに遭うかも」「ひったくりに狙われやすくなるって言うし」と、悪いことばかり考えていた。

 

 

ただ、妊娠後期にもなれば、お腹もかなり目立つので隠せないし、私の場合はどこからどう見ても、妊婦だとわかる見た目だった。

 

だから、マタニティマークはもう、隠していてもあまり意味はない。

 

せいぜい後ろからひったくりに狙われにくくなる程度か?

 

 

 

とにかく、それまでの妊娠期は、異常なくらい神経過敏になって過ごしていた。

 

外出時、特に電車では、「誰か悪い人がいるかも」という過剰な警戒心を持っていたために、けっこうこわかったんだと思う。

 

そんなときに、かの男性が全くなんの躊躇もなく「座ってください」とすぐに気づいてくださった。

 

だから、本当に本当に本当に嬉しくて、自宅の最寄り駅をおりてから、泣きながら帰宅した。

 

電車が混んでいて、おりるときにもう一度お礼が言えなかったけど、男性も同じ駅でおりたようだったので、同じ地域に住んでいると思うと余計に嬉しかった。

 

 

 

私も妊娠前までは、当然のように席を譲っていた。

 

きっと、男性にとってもそれは、当たり前のことだったんだと思う。

 

特別なことではなく、ただのいつもの日常。

 

「いいことをした」とか「譲ってあげた」とか、そういう気持ちはなく、ただ「そういうものだから」という感覚なんだと思う。

 

少なくとも私が席を立つ側だったときは、そうだった。

 

だけど、譲ってもらう立場になってみたら、とてもとても特別なことだった。

 

自分がしてもらうという発想がなかったとはいえ、こんなにあたたかい気持ちになるとは、思いもしなかった。

 

親切をする側にとっては、なんでもない100回のうちの1回でも、受ける側にとっては、特別な1回なのかもしれない。

 

 

 

今回席を譲っていただいた男性にはもちろんですが、私に限らず、妊婦に限らず、普段から他人を気遣い親切にしてくださるみなさんに、心から感謝の気持ちをお伝えしたいです。

 

本当に本当に、本当にありがとうございます。

 

どうかこの気持ちが伝わりますように。

 

 

 

【外国語会話のくだらなさ】金にもならない、教養になるかもわからない、一体何を豊かにしてくれるのか

 

数ヶ月前、久しぶりにドイツ人の友人とビデオ通話をした。

 

英語で会話するので十分なんだけど、ちょっとドイツ語を勉強したくなって、「よしドイツ語を独学しよう。」と決めてから、ちょうど3ヶ月が経とうとしている。

 

なんだかんだ言いながら、この3ヶ月間毎日10分の学習が続いている。(いくら数ヶ月という期間をとっても、1日10分しかやらないので進度はめちゃくちゃ遅いです。笑)

 

継続はすばらしいことなのだけど、実は外国語学習のくだらなさにも気づいてしまっている。

 

自分のなかに湧いたそんな気持ちを、素直に綴って考察してみたい。

 

 

 

ドイツ語独学1週間で気づいたこと

「友人とドイツ語で話したいから学習を始めよう」と決めてから1週間。

 

朝起きて、自分のなかで薄々感じていた気持ちをはっきりと自覚してしまった。

 

「ドイツ語がちょっと話せるようになったところで、一体何になるというのか」

 

私はとてもくだらないことをしているんだと、気づいてしまった。

 

 

「私はドイツ語を学びます。」

「彼女は歌うのが好きです。」

「彼は勤勉です。」

 

 

こんな簡単な文が言えてどうなるのか。文法構造を理解して、何になるのか。

 

日本語に直してしまうと「実にくだらない」の一言である。

 

 

 

外国語会話の弱さ?

こんなくだらない文を覚えなくたって、もう英語で十分話せるじゃないか。

 

だいたい、私がターゲットにしているドイツ人が、少なすぎる。

 

世界に10人程度?

 

その人たちと一瞬だけ、彼らの言語で話すために、こんなことをしていると思うと、わりに合わない気がしてくる。

 

いっそ、ドイツ語の独学などやめて、英語のブラッシュアップをした方がいいんじゃないか。

 

いやいや、そもそもなんで外国語である必要があるんだ?

 

日本語でもっとたくさん本を読んで、もっと思考したり、教養を身につけたり、そういう時間にできるんじゃないか?

 

外国語会話の弱さというのは、私の場合、その先に見える報酬が、とても小さく見えることなのかもしれない。

 

仕事で外国語が必要なら、それはもう必死でやるしかない。

 

逆に、英語圏に住んで何十年たっても、英語を話さない人もたくさんいる。

 

生きるために必要がないから使わなくていいという、ひとつの正しい姿勢である。

 

いまの私は、まさにそういう状態だ。

 

日本語と英語だけで十分やっていける。外国に住む予定もない。旅行なら翻訳機で十分だ。

 

(ニュースだって、重要なものは30分もあれば日英はもちろん、世界中で相互に翻訳されたものが流れてくる。最近では、このスピードが印象的だったのは、森喜朗会長の発言をめぐってのニュースですね。)

 

 

 

一体どこに向かっているのか

こう思うようになったのは、今回のドイツ語独学が初めてではない。

 

留学から帰国し、カタカナ英語がペラペラになったときも、ほぼ同じ考えに行き着いたことがあった。

 

ビジネスではまだ足りないが、日常会話には十分なレベル。

 

なんとも中途半端で、帯に短し襷に長し状態。

 

そんなとき、日常英会話なんてバカらしい、くだらないと思っていた。

 

確かに、世界は少し広がったかもしれないが、その先の見通しが甘かった。

 

これが英語が少しできるようになったときの、大誤算、大反省だった。

 

 

 

費用対効果、時間対効果は最悪

それから10年たって、今度はドイツ語でまた同じことをしようとしているんじゃないか。

 

このままドイツ語を勉強し続けても、行き着く先は英語と同じなんじゃないか。

 

英語ですら、せいぜい街中で困った外国人を見かけたとき、ちょっと声をかける程度にしか使ってない。

 

最近は旅行客を見かけないので、さらに使わなくなった。

 

あとは友人とのビデオ通話と、夫の気まぐれ英語学習に一緒に参加するときくらいか。

 

なにかに役立てようと考えることもあまりない。

 

だって英語使うと疲れるんだもん。

 

せめてボランティア活動くらいはしたほうがいいか。

 

とにかくこんな現状では、「英語学習も留学も、お金の無駄、時間の無駄だった」という考え方すらできてしまう。

 

さらに、英語と比べてドイツ語は、話者が一気に減るわけだから、もしかしたら英語より悲惨な未来が待っているかも(笑)

 

YouTube動画を利用して無料で学習できているのがせめてもの救いだが、外国語会話の費用対効果、時間対効果は最悪だ。

 

 

 

それでも情熱を感じるのは

私はきっと、とても幸せに生活ができているから、こんなくだらないことを毎日続けるだけの余裕があるんだろう。

 

さて、この費用対効果も時間対効果も最悪で、それでもただなんとなく情熱を感じるからやっていることをなんと呼ぶのか。

 

趣味だ。

 

そうか、これが私の趣味だったのか。

 

学生時代はなぜか「外国語学習=もっともダサい趣味」だと思いながらいたくせに、それでも情熱を感じてしまうのだから、仕方ない。

 

そのダサい趣味の先に何が見えるかなど、いま考えても意味がない。

 

それが私のなにをどう豊かにしてくれるかなど、想像してどうなるのだ。

 

英語だって、はじめに想像したのとはずいぶん違う結果になったわけだが、ドイツ語が今後私にとってどういう存在になるかなんて、(そもそもいつまでどのレベルまで続けられるのかも)いろんな意味でわからない。

 

もっとおばあちゃんになって、人生を振り返ったときになにか考えることがあるのか、気づくことすらないのか、全然わからない。

 

なにが無駄だったかなど、いま決める必要はない。

 

くだらない、おバカなことを続けている。

 

それでも、なぜかやめられない。

 

なぜだかわからないのだけど、とにかく使えるようになりたいだけなのだ。

 

 

 

結論

 

だから、私の結論はこうだ。

 

 

 

 

『私はドイツ語を学びます。』

 

 

 

  

【呼び方を考える】妻「嫁ってどう思う?」夫「奥さんってラスボス感あって強そう」

 

夫と二人暮らし、30代の主婦です。

 

外で誰かに夫や妻を紹介するとき、呼ぶとき、なんて呼ぶのがいいんでしょうか?

 

経験から感じたことや、夫と話したことをまとめました。

 

 

 

 

「嫁です。」に違和感

夫と結婚したころ、夫の親戚(かなり大人数)と会う機会があって、夫父が私を含め親戚に紹介してくれた。

 

夫父が「◯◯(夫の名前)のお嫁さん。」と言うのに合わせて、私は、「◯◯(夫の名前)の嫁です。」と言った。

 

でも自分で言っておいて、あれ?なんか自分のこと嫁って言うの変かな?と思った。

 

だから、次に紹介された親戚の方と挨拶するときは、「◯◯(夫の名前)の妻です。」と言うようにした。

 

一応、自分の下の名前も言った。

 

相手にとってみれば、嫁だろうが妻だろうが、私が名前を言おうが言わまいが、何年に一回会うか会わないかだから、どっちでもいいだろう。

 

ただ、なんでかわからないが、「嫁」っていう響きがどうもしっくりこなくて、気になってしまった。

 

 

 

「お嫁さん」

「嫁」っていうと、なんか変だけど、夫の両親に「◯◯(夫の名前)のお嫁さん」って呼ばれるのは、なんとなく嬉しい感じがした。

 

たぶん、「嫁」だけで使うと、特に義理の両親が「うちの嫁」と言うと、「俺らの」みたいな、ニュアンスが感じられるんだと思う。

 

でも、夫両親が「◯◯(夫の名前)のお嫁さん」って言うと、「自立した息子が、自分で決めて結婚した人」っていう感じがあるのかな。

 

だから、両親も自立しているし、子どもも自立しているし、その自立した子ども夫婦のことも、自立した人たちとして尊重し、認めてくれている。

 

そういう雰囲気が、夫両親の言葉から感じられた。

 

 

 

無難なのは「夫」「妻」だけど

なにか正しい言い方はあるんだろうか?

 

例えば、私や夫がお互いを紹介するときは「夫」「妻」と呼ぶのが、一番無難ではあるだろう。

 

それが続柄でもあるわけだから。

 

でも、そのときによって、「うちの旦那が」「主人は」って言うときもある。

 

特に使い分けに意味はない。

 

逆に夫は、目上の人や仕事関係の人には「妻」と言ったり、くだけた場面では「嫁さん」と言ったり、人からは「奥さん」と呼ばれたりするらしい。

 

夫は、私のことを「嫁」だけで呼ぶには抵抗があると言う。

 

「嫁って呼ぶと、なんとなく"嫁がせた"みたいな感じがして苦手」らしい。(でも、嫁さんっていうのは響きが可愛いから良いんだとか。笑)

 

私の父は、母のことを「家内」とか「妻」とか呼んでいた気がする。

 

お店で接客を受けるときや、かしこまったシーンでは「ご主人」「奥様」と呼ばれるか。

 

確かに、目上の人の夫、妻をさすときは「ご主人」「奥様」と呼んでるなあ。

 

 

 

現代の「ご主人」と「奥様」は

人によっては、この「ご主人」「奥様」という呼び方が古くて男尊女卑的に感じるらしい。

 

確かに、男が主で、女が家の奥(中)っていう格好には見えるか。

 

「家内」というのも、女は家の内という意味か。

 

それも理屈としては、十分理解できる。

 

でも、その呼び方をしている人が、「男は外で、女は中」と考えているかというと、ほとんどの人はそうじゃないだろう。

 

70代になるうちの父だって、母のことを「家内」と呼んでいるからと言って、「女は専業主婦」なんて、さらっさら思っていない。

 

母はたまたま専業主婦でいられたけど、いまの時代そうじゃないからと言っていた気がする。

 

つまり、「家内」というのは、ただの呼び方に過ぎないのだ。

 

夫にこの一連の話をしたところ、

 

「"家内"って呼び方いいね。」

「"主人"っていうと門前に立って腕組みしてそうだけど、"奥さん"とか"家内"って言うと、家の奥にドンッとかまえてて、強そうじゃない?ラスボス感あるよね。」

 

と言う。

 

なるほど、妻はラスボス…。

 

そう言われるとそんな気もしてくる。

 

現代においては、男は主、女は内という男女役割的なニュアンスはかなり薄れていて、むしろ「女の方が強いんだ」とさえ思う男性もいるのかもしれない。

 

 

結論

 

 

 

 

 

私はこの家の、ラスボス…。

 

 

 

 

『親が家に人を招いたとき「挨拶しろ」と強要されて嫌だった』を考える

 

毒家庭出身の30代主婦が、健康的な家庭で育った夫、その親兄弟との付き合いを通して気づいたこと、考えたこと。

 

 

 

夫実家にて

夫と結婚したばかりの頃、夫とともに夫実家へ行く機会があった。

 

夫には、実家に住む兄弟がいるのだけど、姿がなかったので「兄弟くんは今日はお仕事ですか?」と夫両親に聞いた。

 

すると、夫父が「寝てる。」と言う。

 

私は驚いたが顔には出さず、「そうですか。」と返した。

 

しかし、すかさず夫母「寝てないと思うよ。起きてると思う。」と言う。

 

私はさらに驚いた。

 

なんていうか、うちの実家とは全然違う。

 

義理の兄弟姉妹が家に来ても、寝てる、または挨拶せずに部屋に引きこもっているという状況を、両親が認めているということに驚いた。

 

自分の実家なら引きずり出されてるところだ。

 

だから内心「え!それって、いいんですか?(笑)」って。

 

もちろん肯定的な意味で。

 

それって許してもらえるんだ!っていう、心が躍るようなキラキラした気持ちになった。

 

子どもを自由にさせてくれる夫両親のことが、ますます好きになった。

 

きっと、自分が実家でやったら許されなかったことが、夫実家で許されたから、自分が夫兄弟に重なって見えて、自分が許された気持ちになったんだと思う。

 

ちなみにこのとき、時刻は夕方4時。うちの実家だったら、寝てれば張り倒される時間だ。

 

 

 

夫親戚宅にて

そんな経験をして、ルンルンしていたころ、夫の親戚の家に挨拶に行く機会があった。

 

この日訪問した親戚宅には、思春期の男の子がいて、部屋にこもっていた。

 

そしてその子の親兄弟が「おい、出てきて挨拶しなさい。」と、男の子に声をかけたが、出てこなかった。

 

このとき私は、「私たちの都合で押しかけているのだから、無理に挨拶させようとしなくてもいいよ」と思っていた。

 

これがうちの実家なら、許されたものではない。

 

「いつまでパジャマでいるんだ!」

「さっさと着替えて挨拶しに来い!」

 

と、部屋のなかまで来て怒鳴られ、ぶん殴られているだろう。

 

 

 

一方通行。親子逆なら?

「なんで親が勝手に日時を決めて人を招いておいて、挨拶を強要されなきゃいけないんだ。お茶汲みまでマナー良くさせられて。」と、実家に住んでるときはよく思ったものだった。

 

でも、大人になって家庭を持ってからも、あのとき感じた理不尽な気持ちは、特に間違ってもいなかったんだなと思う。

 

一緒に住んでる家族が、人を家に招くとき、「挨拶してほしい」とお願いするのも自由、それを受けて挨拶するのも自由。

 

そういうふうに思うようになった。

 

ところで、親子逆のときは、通用しなかった。

 

家に友達を呼びたいなら、事前に親に許可をもらわないといけないし、断られることも多かった。

 

これは家庭によっていろんなやり方があると思うけど、私は、子どもが急に家に友達を連れてきたりしたら、「めっちゃ嫌だ面倒くさーい」「家でのんびりしたいー!」「今日はごめーん」って思うタイプだと思う。(まだ子どもいないけど。)

 

だから、事前許可制は、私も引き継いじゃいそうだなと思った。

 

そこで気づいた。

 

子ども側も、そう思っていいんじゃない?

 

親が勝手に連れてきた人には、子どもは挨拶を強要されるのに、逆は通用しないっていうのが、けっこう子どもはかわいそうだなって。

 

同居してる人と「何月何日何時に、誰さんを呼びたいと思ってます。良かったら挨拶よろしく。」って連絡は、親子かどうかって、あんまり関係ないなって思った。

 

一緒に住んでるメンバーとして、親子で話し合うくらいは、してもいいよな。

 

とにかく、親から子に対する一方通行のルール押し付けが嫌だった。

 

 

 

自由な夫家と強要の私家、結果は

さて、「家に人が来ても挨拶するかはその人の自由」で育った夫や夫兄弟と、無理やりにでも挨拶させられてきた私は、大人になってどうなったか。

 

結果的に、夫や夫兄弟は、対人マナーも良いし、人に気を配れるし、がんじがらめにされて育った私よりも、はるかに成功しているように見える。

 

自由に育てられた方が、自分で学ぶ機会が多いからなのか。

 

または、私のような育ち方をすると、指示されないと動けない、間違った行動をしてしまうのが恐怖ゆえに、どう行動していいかわからなくなってしまうからなのか。

 

はたまた、持って生まれた性格なのか。

 

あるいはその両方か。

 

理由は明確にはできないけれど、厳しく調教した馬のほうが、必ずしも速く走れるというわけではなさそうだ。

 

 

夫と話し合った結論

 

「人にされて嫌なことは、やらない」

 

 

 

終わり。

 

 

 

 

 

【違和感】妊娠発覚する人の方が妊娠判明する人より多い気がするけどどうだろう

 

最近、子どもを授かれたらいいなあと思うようになり、妊活情報をよく調べるようになった。

 

・発覚という表現

調べているとよく目につくのが「妊娠発覚」という表現。

 

あれ? 発覚って、隠していた悪事がバレるみたいな意味じゃなかったっけ?

 

それとも事情がある妊娠なのかな?

 

純粋にそう思った。

 

「妊娠がわかった」

「妊娠に気づいた」

 

とか、自分のまわりではこういう表現をする人が多い気がして、あまり聞かないから余計におかしいように感じてしまった。

 

 

 

・気づかないのと隠しているのは違う

自分が気になるだけで、他の人は気にならないのかな〜と思いながら調べてみると

 

「妊娠は気づかない期間があるから発覚でもおかしくない」という意見をみかけた。

 

気づかないのと、意図的に隠しているのは、ずいぶん違うなあと思う。

 

自分は妊娠していることを知っていて隠していたけど、周りにバレてしまった。

 

これは、発覚? これすら微妙なラインだけど。

 

 

・妊娠と発覚という言葉のセットが合っていない

例えば、未成年の望まない妊娠で、娘は相談できず隠していたが、親が気づいた。

 

このとき親が「娘が妊娠していることが発覚した」というなら使える?

 

一方で、芸能人夫婦など、安定期になったら公表するつもりだったけどどこからか情報が漏れちゃったという場合。

 

メディアは「妊娠発覚」って面白おかしく使うかもしれないけど、夫婦に子どもができたことは別に、悪事でもないから、変だなあと思う。

 

つまり、妊娠に発覚っていう言葉のセットが、合っていない気がする。

 

偽装工作が発覚した。

隠し子がいることが発覚した。

 

こういうのじゃないかなあ?

 

 

・言葉は変化する

じゃあ、妊娠発覚って使う人をおかしいと否定しているかというと、そうでもない。

 

私は感覚として、しっくりこない表現だなあといまは違和感を持っているけど、言葉は変わっていくものだから、時代とともに意味が変わるのは普通のことだと思っている。

 

変化してきた言葉なんて、日常いくらでも使っている。

 

例えば、ら抜き言葉

 

いまは正式には認められていなくても、文法上、「可能」を表現するときは、ら抜きするのが、正式になるかもしれない。

 

今後、「食べれる」と「食べられる」は別の意味になるかもしれない。

 

そういえばこの前、「犬も歩けば棒に当たる」って、悪い意味だったよね?

 

と思って調べて驚いた。

 

良い意味でも悪い意味でも使われるらしい。

 

イメージで言うと、とんできた棒で負傷してアンラッキーなのか、棒がとんできてラッキーなのか、という感じ。

 

もともとは気をつけろという戒めだったのが、「当たる」というのを幸運と捉えるようになったとか。

 

なるほど、言葉の意味は時代によって変わるのだなと思ういい例だった。

 

だから、言葉の変化自体を否定したりはしない。全然しない。

 

だって、「全然大丈夫」って言っちゃうもの。

 

「全然問題ないよ、大丈夫だよ。」の略だと思ってみたり。

 

「全然〜ない」が100%否定だから、(文法上は認められていなくても)肯定にも100%の意味で「全力でOK」っていう感じで口をつく。

 

文章を書くときには全然使わないけど、口語では全然使っちゃう。

 

そういうわけで、「発覚」の使い方が間違っていると声高に言いたいわけではない。

 

ただ、個人の感覚として「しっくりこないなあ。」と感じるだけ。

 

似たように感じている方、いませんか?

 

 

追記:

 

記事にタグを付けようとしたら、「妊娠発覚」は候補に出てくるのに、「妊娠判明」は出てこなかった。

 

もうこれは、私が変化の流れに乗れていないだけなのでは。

 

時代遅れのおばさん、チョベリバです。

 

 

【いつもの夫婦喧嘩】神経質な妻vs無神経な夫。夫婦がともに勝利した日

 

つい3日前。

 

夫:君が神経質すぎるんだろ!

 

私:あなたが無神経なんでしょ!

 

というケンカをしたばかり。

 

 

そして今日。

 

売っていないので仕方なく洗って再利用していた、夫の使い捨てマスクがなくなった。

 

マスクがなくては、この時期だもの、白い目で見られそうだ。

 

 

そこで、私はネットで公開されている型紙を使って

 

家にあった布で夫用のマスクを作ってみた。

 

材料すらどこにも売っていないのでありあわせ。

 

とりあえずやり方とサイズを試すつもりで作ったものだった。

 

 

サイズが合うか確認するために、

 

夫に顔に当ててもらうと

 

「うん。いいね。普段使ってた使い捨てマスクよりいいな。」

 

と言う。

 

 

おそらく普段はプリーツマスクで、

 

今回作ったのが立体だったからだと思うのだが

 

とにかくこれを気に入った様子。

 

 

夫:これ、会社で聞かれたら、"妻が作りました"って言っていい?

 

私:え? これ会社につけていくの? ちょっとよく見て。試しで作ったから縫い目ガチャガチャでしょ? せめて近所のスーパー行く用にしたら?

 

夫:そう? 会社につけていこうと思ったんだけど。

 

私:本当にこれでいいの? じゃあせめて"試作品"と言ってくれよ。。

 

 

そんなわけで、"試作品"が"作品"になったので

 

私はもう作らなくて良いようだ。

 

夫は本当にそれで満足なのだそう。

 

 

はじめは気を遣ってくれたのだと夫の優しさにホレタのだが。

 

そうだ、思い出した。

 

この人は本当に細かいことなど気にしない、無神経な人だった。

 

たった3日前。それでケンカしたんじゃないの。

 

 

夫の無神経さが私への優しさになった日。

 

夫婦ともにwin-win となった出来事でした。

 

 

夫よ、気に入ってくれてありがとうね。